八坂エリアというのはもともとは、高句麗系渡来氏族・八坂造の一族が住むエリアであり、八坂塔も八坂神社も彼らの氏寺だったということがわかりました。
では最後に残った疑問、
・八坂造が祭る前の八坂神社の主祭神は何だったのか?
できる限りで調べてみました。
祇園祭と八坂神社の起源について その① はこちら ↓
祇園祭と八坂神社の起源について その② はこちら ↓
八坂造が来る以前の、八坂神社の主祭神は何だったのか?
ところで、八坂神社wikipediaにはこのようにも書かれている。
ここで出てくる「天神」という言葉は何を指すのだろうか。
単純に言葉の意味を追うと、二つの可能性が考えられる。
① 菅原道真に関すること。天神社、天満宮。
② 天津神
①の菅原道真 は、彼は没後すぐに天神様(雷神)としてまつられるが、彼が没したのは西暦903年なので、どうやらこの天神とは違うようだ。
②の天津神 について
天神=天津神とは、高天原にいる神々、または高天原から天降った神々のこと。
有名どころでは、天之御中主神、国之常立神、天照大御神、建御雷神など。
→ ということは、もともとの祇園の地には天津神がまつられていたのかもしれない???
ちなみに、天津神に対して国津神は、地(葦原中国)に現れた神々の総称。
西暦656年より祭られ現在までの主祭神である素戔嗚尊は、国津神に当たる。
ということは、
もともとまつられていた天神(天津神)と 素戔嗚尊(国津神)が合祀された
あるいは、
祇園天神とは何者なのか?
実はずいぶん早い段階で、祇園天神とは "神農" ではないかとする説が提示されている。
神農とは、古代中国の伝説上の帝王のひとりである。
農耕と医学を司るとされている。
その説が出ているのは『中外抄』という、平安時代末期(1100年ごろ)の書物だ。
かなり古い時代のものなので、今よりもずっと資料や人々の記憶も残っていただろうから、これはとても信憑性があるのではないだろうか?
では、具体的にはどいうった事がかいてあったのか。
こちらのサイトから引用させていただきます。
https://umai-mon.shokubunka.co.jp/blog/archives/41571
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平安末期に成立した『中外抄』の久安3年(1137)7月19日条には以下のように記されています。
https://umai-mon.shokubunka.co.jp/blog/archives/41571
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平安末期に成立した『中外抄』の久安3年(1137)7月19日条には以下のように記されています。
久安3年7月19日。入道殿の御前に祗候す。(中略)また、仰せて云はく、「祇園天神は何なる皇の後身ぞや」と。予(筆者註:中原師元)、申して云はく、「神農氏の霊か。件の帝は牛頭なり。但し、故忠尋僧正の説には、王子晋の霊なり」と云々。
仰せて云はく、「神農氏なり。神農氏は薬師仏と同体なり」と。
おおまかに現代語訳にすると以下のようになります。
--------------------------------------久安3年7月19日。入道殿(藤原忠実)のもとをご機嫌をうかがいに訪問した。(中略)また入道殿がおっしゃるに、「祇園天神というのはいかなる帝が生まれ変わったお姿なのか?」ということである。
私(中原師元)が申し上げたのは「神農の霊ではないでしょうか。かの帝は牛頭でした。ただ、故・忠尋僧正の説によりますと、王子晋の霊といいます」ということだった。
(すると入道殿が)おっしゃるには「神農であろう。神農は薬師仏と同体である」ということだった。
これによると、すでに 祇園天神=牛頭天王 という図式があったうえでの解釈のようなので、牛頭天王奉斎以前のことは、やはりわからないままである。
『中外抄』の出版は1100年で、すでに創建説①はこの時よりも400年も昔のことなのだから、無理もないのかもしれない…。
(祇園天神=神農説も興味がないではないが、あえてここでは追わないこととする)
しかし、”祇園社は異国の神である” という認識は 現在よりも強くあったことがわかる。
残念だがここで追跡を終えるしかないようである。
無念である。
なぜ高句麗系の八坂造が、新羅系の神である素戔嗚尊を祭ったのか?
では、最後にもう一つの疑問である「なぜ高句麗の人々が新羅系の神をまつったのか?」について考えてみる。
ここまで調べた情報が正しいと仮定したうえで、年号に沿って流れを推測してみると、かなり大まかだが こんな感じになる。
西暦592年ごろ
ここまで調べた情報が正しいと仮定したうえで、年号に沿って流れを推測してみると、かなり大まかだが こんな感じになる。
西暦592年ごろ
高句麗系一族の八坂氏が八坂エリアに居住。
西暦656年ごろ
そこへ疫病が流行。
疫病退散を願って新羅系の神である素戔嗚(=牛頭天王)を合祀し、まつりはじめた?
この辺りを詳しく考えるためには、日本国内の事だけではなく、朝鮮半島との関係性を考える必要がありそうだ。
こちらのサイトで、古代日本と朝鮮半島との関係がわかりやすく書かれている。
https://1000ya.isis.ne.jp/1491.html
要約すると、こんな感じ。
そこへ疫病が流行。
疫病退散を願って新羅系の神である素戔嗚(=牛頭天王)を合祀し、まつりはじめた?
この辺りを詳しく考えるためには、日本国内の事だけではなく、朝鮮半島との関係性を考える必要がありそうだ。
こちらのサイトで、古代日本と朝鮮半島との関係がわかりやすく書かれている。
https://1000ya.isis.ne.jp/1491.html
要約すると、こんな感じ。
西暦300年ごろの朝鮮半島は、百済・新羅・伽耶、そして北方に高句麗があり、高句麗の勢力に勢いがあった。
倭国はもともと伽耶と近しかったのだが、伽耶を通して百済とも友好関係を結んだ。
一方、新羅とは反目することが多く、微妙な国際関係がその後も長く続く。
勢力を増した新羅は唐と同盟を結び、663年、倭国・百済遺民の連合軍は唐・新羅連合軍に敗れてしまう(白村江の戦い)。
さらに新羅は660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。
祇園社での祭神が謎の「祇園天神」から新羅系の「スサノオ」に変わったのは、この高句麗が新羅に滅ぼされたことは何か関係ありそう…なんて考えてしまうのは浅はかだろうか。
年号的にはかなり近いのだが…
もともと八坂周辺には高句麗系渡来氏族である八坂造が住んでおり、氏寺などをまつっていた。
しかし新羅に日本と高句麗が敗北したことにより、新羅の神(牛頭天王)をまつることにより恭順の意を示した。
敗戦国の人となってしまった八坂造は下級神職である犬神人となり、新羅に仕えることとなってしまった…。
なんて、こんな想像をしてみたりした。
ちなみにつけ加えると、古代の高句麗や新羅、百済などの人々は現在の韓国に住まう方々とは異なる民族であるというのが識者のあいだでは有力な説のようだ。
推論まとめ:
神代~飛鳥時代 :天神または祇園天神として天津神が、東山山麓にまつられていた
592年(〃 ):八坂造によって氏寺「法観寺」建立される
656年(〃 ):高句麗の伊利之使主が新羅の牛頭山の神を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎する(牛頭天王)
663年(〃 ):倭国・百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる(白村江の戦い)
668年(〃 ):新羅によって高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島が統一される
…200年弱の空白…
863年(平安時代):神泉苑において初の御霊会が行われる
869年(〃 ):兵庫県姫路市の広峯神社(734年創建)より牛頭天王を分祀したという説もある
876年(〃 ):南都(奈良)の僧・円如が当地にお堂を建立する
877年(〃 ):神泉苑で行われていた御霊会を祇園社にてとり行う
970年(〃 ):祇園社の例祭となる
おわりに
この度のことで、初めて古代の朝鮮半島についてあらためて勉強しなおす良い機会であった。
今までは「渡来系」とひとくくりに考えてしまっていて、新羅も高句麗も任那も全部一緒のように考えていたが、そりゃあ違うよね、とあらためて反省。
(実際、混同してしまっているサイトも多数見かけた)
今までは「渡来系」とひとくくりに考えてしまっていて、新羅も高句麗も任那も全部一緒のように考えていたが、そりゃあ違うよね、とあらためて反省。
(実際、混同してしまっているサイトも多数見かけた)
「祇園祭と八坂神社の起源について」はこれで終わりです。
長々とお付き合いくださり、どうもありがとうございました!
八坂神社の説明について、とてもよくまとまって書かれているサイト
https://jun-yu-roku.com/yamashiro-kyoto-gion-yasaka/
その他、参考にさせていただいたサイト
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-2f17.html
朝鮮半島に関するサイト
https://nhkbook-hiraku.com/n/nc32d873f61ec
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-36.html